私の「働くことと生きること」 その3 園芸店の店員

堀切菖蒲園の菖蒲

1996年、私は東京にいた。18歳だった。

函館の実家を出て、千葉の寮から水道橋にある専門学校に通っていた。子どもの頃から漫画家になりたいという夢があり、それを叶えるためだった。高校は復学することなく3月に退学届けを出していた。

専門学校には2カ月通った。でも、授業はつまらなかった。こんなことをしていて何の意味があるのか、よくわからなくなっていた。学校に通えば何かが変わるかもしれないという甘い期待はすっかり薄れ、うすうす感じていた「私は本気で漫画家になるつもりはない」ことを思い知らされただけだった。

学校へ行かなくなって、でも函館に戻るわけにもいかなくて、私は飯田橋の職安に出向いた。そして、新宿の百貨店屋上にある園芸店のアルバイトをはじめることになったのだった。

園芸店を選んだのはとくに深い意味はなかった。しいていえば、祖母が植物を育てるのが好きで、その影響か私も観葉植物や野菜を育てたりするのが好きだったからだ。

園芸店で働くのは楽しかった。百貨店の屋上にあったので、店の裏側を見られるのも面白かった。

朝、出勤すると社員通用口から入り、屋上までエレベーターに乗るのだが、操作してくれるおじさんが必ず乗っていた。「エレベーターガール」ならぬ「エレベーターおじさん」。おじさんは3人いて、交代で乗っていた。

百貨店は毎朝朝礼があって、我々もテナントとはいえ参加していた。開店10分前になると館内に音楽が流れ、それを合図にみんな所定の場所に集まる。そして接客5大用語を唱和しながらお辞儀の練習をした。

朝は閉店後店の中にしまっていた商品や鉢を外に出して並べ直すところからはじまり、水やり、接客のほか、赤玉土などの大袋の商品を小分けの袋詰めにする作業、そして夕方からはお客さんが購入した商品や鉢の梱包と発送作業がある。場所柄、洋ランがとくに充実していて、専用の温室もあり、手入れをすることもあった。20時くらいには店じまいをしてだいたい一日が終わる。

昼は屋上に社員食堂があったのでそこで食べた。買い物客からは見えにくいところに入口があるのだが、まさかこんなところに社員食堂があるとは思わず、最初はかなり驚いた。昼はいつもNHKのお昼のニュースがかかっていた。ある時なぜかパフィーの「アジアの純真」が流れてきて、妙に記憶に残っている。

百貨店は独特のルールがいくつかあるが、必ず百貨店の人がレジに入っていたこともそのひとつだ。私たちがレジを打つことはなく、レジ締めの業務を任されることもなかった。それはある意味ありがたいことだったかもしれない。

毎週火曜日は、社長が花卉市場から仕入れてきた鉢を1階から屋上まで運びあげる仕事があった。大変ではあるのだけど、一番いい状態の植物を見られるので、私は案外火曜日が好きだった。ただ、そのあと値付けの作業があってそれは面倒だった。

水やりは長いホースを使って端から端まで一鉢ずつ回る。水やりのコツはズバリ、鉢底から流れ出るくらいたっぷりあげること。植物も代謝をするので、鉢の中に老廃物が貯まる。ちょろちょろ水をあげていても老廃物はなかなか外にでていかなくて根腐れの原因になることもある。だから豪快なくらい、バシャーと水やりをするのである。

水やり作業は夏が一番つらかった。屋上だから照り返しがすごく、おまけに私は北国育ちのせいで30度を超えるような夏の暑さをほとんど体験したことがなかった。冷房の効いた店内から一歩外に出ると、「じゅっ」と音がするんじゃないかと感じるくらいで、本当にきつかった。

水やりをしていたら、なぜかお客さんに写真を撮られてしまったことがある。肥料メーカーのロゴが入ったエプロンをして、なんとも微妙な顔で写った写真がまだ手元にある。

冬も水やりは毎日やる。夏と違って植物たちもシーンとしていて、生きているのか死んでいるのかよくわからない。それでも春になると植物たちは動き出し、ちょっとずつ元気を取り戻す。

園芸店で働いている間、私は自動車学校に通っていた。学校が明大前にあって、店長も理解のある方だったので、昼休みに練習しに行ったこともある。わりあい順調に教習が進み、無事免許を手にすることができた。

一時期、明治大学の農学部に通っているという女の子がアルバイトで入ったことがある。彼女はすぐ辞めてしまったのでそこまで親しかったわけではないが、のちに私が農学系の大学にすすむことになったのは、「農学部」の存在をそのときはじめて知ったからのような気がする。

この園芸店で働いていたころ、私はひとり暮らしをはじめて経験する。専門学校は辞めてしまったので寮にいられなくなり、一緒に働いていた人のおばさんが所有するという相模大野のアパートを紹介してもらい、住むことになったのだ。

数か月ではあったけれど、そのとき私は自分の稼いだお金だけですべての生活をまかなっていた。なんだか本当の自由を手に入れた気がして、すごくうれしかったのを覚えている。

園芸店での仕事は1年弱ほど続けたが、慣れないひとり暮らしや夏の暑さなどで心身が少しずつ弱ってしまい、「簡単に帰ってくるな」と怒っている父親を説き伏せ、1997年、函館に出戻ったのである。

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