他者の死をみつめるということ/「紅梅」(津村節子)_DAY15

自宅待機15日目。

会社に行かなくなって2週間がすぎた。

最初のうちはちょっと張り切っていたところもあったけれど、このところはずいぶんのんびり過ごしているような気がする。ルーチンの運動をさぼることも多々…。

今日はいろいろと用事の多い一日だった。昨日の寝違えの痛みも軽くなってほっとする。

午前中、定期券の払い戻しのため3駅先の定期券売り場まで行く。久しぶりに電車に乗ると、やはり多少緊張する。

定期は6か月分買っていたのだが、今後収入が減るのは確定しているので、今は多少損をしても払い戻して手元資金を確保することにしたのである。

昼前、楽天で買ったデスク下マットと会社からの荷物が宅配便で届く。その後昼ご飯を食べてから銀行と、食材の買い出しのためスーパーへ行く。単なる散歩としてではなく、珍しく用事があって外を歩き回った。

デスク下マットは、今まではタイルカーペットを貼っていたのだけど、タイルそれぞれの隅がめくれてきたのと、かなり古くなったのもあって、貼り替えることにしたのだ。届いたマットをさっそく貼ってみたらかなり調子がよい。自宅待機中はデスクで過ごす時間も多いので、これで快適に過ごせる。

そのほかの時間はまた本を読んで過ごす。一度本を読みだすと、なんだか止まらなくなる。

本日は、9年前に買ったきり積ん読し続けていた津村節子著「紅梅」。

実は、この本を買った経緯をほとんど覚えていない。でも、いつか読もうと常に目に入る場所に置いてあった本でもあった。そしてようやくそのタイミングがやってきたのである。

作家・吉村昭の妻で同じく作家の著者が、吉村氏の発病から1年にわたる闘病と死を描く。

語り手は著者である。その時々の心情を正直に、率直に描いているので、読んでいるうちに夫の病状が悪化して動揺する気持ちや、夫に対する感情、自分が作家であることからくる自責の念といったものがこちらにも伝わってくる。読み始めたら止まらなくなり、一気読みしてしまった。

病に侵された人が闘病を経て亡くなるまでをとらえた、テレビのドキュメンタリーを見たことがある。最初は普通に生活していた病者が日に日に弱っていく様子は、見ていて非常に身につまされた。亡くなる瞬間も克明に記録され、他人の死にここまで踏み込んでいいのか、テレビを見続けるのを多少ためらう気持ちにもなった。カメラを回している人も同じようにいろんな感情を抱いたはずだが、カメラの視線はあくまで冷徹だった。

もし身内の人間だったら、あんなに冷静に事態を受け止め、カメラを回すことはできただろうか。

小説も例外ではないように思う。「紅梅」を書くにあたって、著者は何を感じていたのだろう。この小説は吉村氏が亡くなって数年たってから発表されたものである。冷静に客観的に夫の死を見つめられるようにならなければ書けなかっただろう。ストーリーには当然自分も関わってくるし、恥をさらすようなところもあっただろう。それでも書く。それが作家というものなのだろうか。

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